限界集落旅の名言

限界集落等の過疎地に住む人生の先輩方から「人生訓」を収集する旅

限界集落の旅-鳥取県智頭町板井原集落でインタビューが上手くいかない-

前回からの続き:大阪府千早赤阪村和歌山県の北山村に行き、人のやさしさに触れて少しずつ自分の気持ちが前向きになっているのを感じ始めた僕は鳥取県の智頭町にある板井原集落に向かっていた。しかし旅を続けるうちに何か自分の内部に淀みのようなものを感じ始めていた。

 

 

▼前回の記事▼

genkaishuraku.hatenablog.com

 

 

鳥取県智頭町板井原集落へ向かう

2018年の2月頃、増富社長に貸してもらっているホンダのアクティにスタッドレスタイヤを履かせた僕は雪の降る鳥取県に向かっていた。鳥取県を訪問した動機は忘れたが、とにかく鳥取県智頭町の板井原と呼ばれる集落へ向かっていた。

 

智頭町に到着して、まず役所に向かった。

ネットで集落を調べたら住人は5人程度と書かれていたが、この5人の方は何らかの理由で居ないような気がしていたため、事前に確認しておいた方がいいと思いまっすぐ集落には向かわなかった。役所で旅のいきさつを話すと、やはり、この時期に集落の人達は山から街に降りてきて生活しているらしく、週の決まったときにしか人がいないことがわかった。またこの役所は協力的で初対面の僕に色々と情報を教えてくださった。おそらく村おこしなどで集落にメディアが介入することが多く取材慣れしているのだろう。

 

役所で教えていただいた集落の会長さんの連絡先に問い合わせてみると、奥さんが出られて、旦那さん(元区長さん)は不在であることがわかった。後日、集落にある宿泊所で話を聞かせていただく段取りをした。

 

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智頭町の役所から山道を4km程登ったところにある板井原集落へ向けて、ガードレールのない細い道を右に左にハンドルを切りながらくねくね進む。杉の木の間から薄っすら差し込む緑の光に照らされたかと思うと、霧に包まれたりする表情豊かな道のりを、対向車が来たら避けられるだろうかと不安になりながら、さらに進み橋を渡ると、『板井原集落』と看板のかかった駐車場に到着した。

 

スタッドレスタイヤを履いたうれしさもあって、ちょっと奥までメリメリ雪を踏みながら進んで駐車した。初めてのスタッドレスタイヤだったので、この踏み心地が良いのか悪いのかわからなかった。

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駐車場

板井原集落の風景

車を降りて民家につながる道を歩くと、昭和30年代の風景(ネットでの受け売り)が続いていた。

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昭和30年代の風景1

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昭和30年代の風景2

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昭和30年代の風景3

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昭和30年代の風景4

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昭和30年代の風景5

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昭和30年代の風景6

昭和30年代フリークには舌なめずりモノの風景に違いない。

待ち合わせ場所の板井原公民館(元分校)に到着した。

公民館の引き戸をガタガタと揺らしていると、腰の曲がったお爺さんがこちらに歩いてきた。この展開だとおそらくこのお爺さんが元区長さんだろうと思ったらその通りだった。

元区長ご夫婦が経営している古民家を改造した飲食店『火間土(かまど)』に移動した。挨拶がてらに僕はお土産の八つ橋をご夫婦に差し出したところ、満面の笑みのご主人が受け取られたのでびっくりした。

火間土の様子

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火間土の様子

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火間土の様子

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手芸コレクション

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手芸コレクション




火間土では窯でお米を炊く体験ができたり、奥さんの手芸講座も開かれている。

格言集1

ご主人(元区長86歳) 奥さん(80歳)

まずは、ご夫婦にこの地域の昔の暮らしぶりを教えていただいた。

林業が盛んで最盛期には女性でも60kgの木材を背負って山を登っていたらしい(男性はもっと多くの量を運ぶ)。当時は山道も整備されておらず、先ほどぼ言うが通ってきた橋もなく木材を伐採して集落に戻るには山を登るしかなかったのだ。当時の女性は脚バッキバキだったに違いない。

 

戦時中の食糧事情

そして当時の食糧事情も教えていただいた。

お二人とも戦争経験者である。

当時の食糧事情をまとめてみた。

1.柿の皮を干したもの

ポケットに入れてちょびちょび食べていたとか。おいしいらしい。

柿フレーバーの和製メントスといったところか。

2.さとゆ(お湯に砂糖を混ぜたもの)

客人への最高のもてなしの逸品。しかしそもそも砂糖自体が配給されていなかったため幻の品でもある。

3.勝栗

名産品の栗よりも甘い。そこらじゅうに生えていた。

 

「買った物は無かった」

日本国民が配給に頼っていた当時、身の回りの物をお菓子にする他なかった。しかし、なんやかんや身の回りに自生している食べ物を工夫して食べていたため大して食料に苦労しなかったらしい。

 

「初めてのときは、興奮しましたよ」

しかしながら、その分、初めて見る食料への喜びは大きく、奥さんは初めてコーヒーを飲んだ時は興奮したらしい。

 

「一日寝たら、寝たら治りますが」

若い頃に数十キロの木材や米俵を担ぎ、朝から晩まで林業や養蚕に携わってこられて、疲れたときにはどうやって体を癒していたのですか、と元気の秘訣をご主人に聞くと、寝たら治る、と言われてしまった。疲れたとしても、疲れたなぁというくらいで、後は寝て治るとのこと。

強すぎやしませんか?

 

「古いところやけえ、古いもんやないと似合わん」 

 火間土の天井付近は囲炉裏から立ち上る炭で真っ黒になっているのにも関わらず、梁の上に祀られているエビスさんだけが微妙に光っている。これは炭で真っ黒になったエビスさんを奥さんが綺麗に磨いていたところ、ご主人に、古民家で一か所だけ綺麗なのは不自然だからやめろ、と言われてエビスさん以外は炭に染まったままだからである。

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光エビスさん

「子供は泣くのが仕事って教えてくれる人がいなくなった」

都会のアクティブシニアたちが自分たちの余生を好きなように謳歌しているため意外と子育てに関与していない場合があり、せっかくの人生経験がもったいない、とのこと。しかし和歌山県では、孫を構いたいけれども親が孫に触らせてくれない、といった悩みを聞いたためお互いに歩み寄る必要がある。

 

「集団で帰るからしんぼうできた」

ご主人曰く子供時代に寒い冬を乗り越える力になったのが集団下校だそうだ。特に集団下校しなさいと言われたわけではないものの、下校時に、学校から家の中間地点にある鍛冶屋さんに一旦、避難して暖を取り、友達が来たら数名で一緒になって帰る作戦をとっていた。避難所になっている鍛冶屋さんは特に何も文句を言わず集団になることに地域ぐるみで積極的だった。

「人情が柔(やわ)らしかったなぁ」

としみじみ振り返るご主人。

 

「先生という人は怖い人」

奥さんに昔の学校の先生について聞いてみた。

昔の先生は怖かった。しかしその分、生徒のために動いていた。靴などの日用品ですらも配給だった子供の頃、冬の寒い時に使用するゴム製の靴が物資不足で生徒全員にいき渡らなかった。そこでできるだけ早く生徒全員にゴム靴を持てるように働きかけてくれたとのこと。

「あの先生は毛虫や」

すぐに怒る先生の俗称を『毛虫』としていた。なんで毛虫なのか理由は忘れたそうだが、言わんとしていることは何となくわかる気がする。

 

「結婚ていいもんですよ」

結婚してどんなことが一番良かったかと質問してみたら、二人ともニコニコするばかり。なんでぇ、バカップルかい!すると奥さんがぽつりと一言。

「扶養手当がつくのもいいけど……それだけじゃないですよ」 と何となく毒のあるお言葉を頂戴した。

※また、相手の嫌なところも「2~3回我慢すれば慣れてくる」らしい。

 

お話を伺い始めて結構な時間が経過しているのにも関わらず、僕は何もハッとするような知恵や格言めいたものが聞き出せず、ほのぼのとした思い出に終始していた。自分の質問が下手だと思い焦る。このご夫婦も僕に対して、この人は何がしたいんだろうか、こんなこと話して何の役に立つんだろうか、と思っているに違いない、と疑心暗鬼が働き、もう何を聞いて良いかわからなくなっていた。

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話の最中に焼いてもらったトチモチ

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ご主人が大好きだというトチモチ

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きな粉をつけると美味



話の合間に奥さんにトチ餅を焼いてもらっている間に、何とか突破口を探そうとしたが妙案は浮かばなかった。せめて綺麗にオチのようなものだけでもつけなければ、インタビューをインタビューたりえるだけの締め方をしなければと思っていたが、そんな器用なことができるのであればいくつも会社をクビになったりはしない。結局どうやってインタビューを終わらせたか全く覚えていない。とりあえず逃げるようにして火間土を離れた。

※火間土の営業期間:4月~雪の降る時期まで

 

囲炉裏の熱で朦朧とした頭が雪で冷やされた外気で少し冷静になった。このまま帰っては負け犬になる気がしたためもう少し集落を歩くことにした。といっても人がいる場所は限られている。僕は集落の古民家カフェ『歩とり』に向かった。

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歩とり

 

歩とり

こちらも古民家を改造しており店内には写真慣れした飼い猫がいる。

限界集落猫カフェとはなかなかオツなものである。

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かなり近づかせてくれる猫

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店内の様子1

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店内の様子2

とりあえず『おぜんざい』を注文してお店のオーナーさんとダベる。

市内に住んでいたオーナーさんだけれども、出店を機にこちらにやってきたことや火間土のご主人が甘党で集落の集まりの時なんかにはケータリングの『カルピス』や『なっちゃん』をグビグビ飲むことなどを教えていただいた。

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ぜんざい

しばらくすると数名の集落の人がお店にやってきた。

仕事の後の休憩らしく、話の流れで僕も皆さんの会話に加わった。

格言2

「しんぼうが金になる」

リンドウの栽培を行っている農家の男性の言葉。

ンだよ、ただの精神論か、と思うなかれ。

【しんぼうが金になる仕組み - リンドウ農家の場合 - 】

1.「トップを目指すために 品評会に出品する」

2.「品評会に集まった人たちと話して、先々の情報を 収集する」

3.「手に入れた情報で、売り上げが下がったときの対応ができる(農業以外の活路を見つけられる)」

4.「逆境に耐えられる」

5.「耐えてるうちに金になっている」

品評会などに出品するのは、その場に集まる意識の高い人から質の高い情報を入手するため。精神論というよりはかなり、したたかなやり方である。また、こうした出品会などに参加するにあたって実力が必要になってくるため、何かを生業をする場合、ある程度トップを狙っていかないといけないとのことである(以下、この農家の男性を『辛抱強いご主人』とする)。 

 

「心が折れたことはありますけど、それより続けてみたい。自分が育てたものがどうなるか見てみたいです」

リンドウの栽培が上手くいかなかったときに心が折れたりはしませんでしたかと質問したときの辛抱強いご主人の回答。「好きなんだなリンドウが」と周りから言われていた。

 

この後、話は火間土のご主人に移った。

86歳にも関わらずご主人は屋根に上って雪かきしたり、今でも脅威的な活動をしているご主人を集落の人たちは『超人』と呼んでいた。

これはおそらく戦争経験が、勉強よりも重労働を強いる日々が、ご主人の体と心を解脱させてしまったからに違いない。

 

どんなに疲れてても「寝たら治る」と言ってしまえるのは現代人と基礎体力と思想そのものが違うからだ。したがって元気の秘訣を聞くのがおかしな話で、体が動くうちはしんどくても動くのが当たり前で、戦争で死の恐怖が無くて『カルピス』や『なっちゃん』をグビグビ飲める環境が幸せなのだ。元気の秘訣なんてあってないようなもので、そんなこと質問されても意味が分からない、答えようがないといったところで、そこに安直に答えが返ってくると考えているから話が上手くいかないのである(がこの当時はそこまで考えていなかった)

 

しばらく雑談した後に集落の人達は帰っていった。

僕はしばらくオーナーさんと雑談して帰ることにした。

 

冒頭で人のやさしさに触れてと書いたものの、この時、僕は「人のやさしさ(?)」と思って始めていた。日々の合間に勇気を振り絞って旅に出ては地元の人に話しかけてみるものの、上手くいってる気がしなかったからだ。というのも旅先でいろんな人から聴いた人生経験を友人に話すと、何やたいした人おらへんな、と返答が返ってきたり、旅先で住人と何かしらドラマがなかったか聞かれて返す言葉に困り愕然とした気持ちになったからである(2019年現在、そうは思ってない)。

 

ここまで別に田舎のお爺ちゃんお祖母ちゃんの家でご飯を食べさせてもらったわけでも泊めてもらったわけでも、1億人が涙するような美談も無い。玉砕覚悟で泊めてくださいと言えばよかったのかもしれないし、嘘でもいいからもう何日もご飯を食べていないから恵んでくださいと演出すればよかったのかもしれない、断られたら土下座をするガッツがあればよかったのかもしれない。

それをできてないことに罪の意識を感じ始めていた。

 

また、この時期に旅先で若干のトラブルもあり、人の心を開いてもらえない自分は取るに足らない下等な生き物なんじゃないかとも疑い始めていた。

 

この罪の呵責のような気持ちは後々、旅の途中で思い出したかのように頭をよぎる度に大きくなっていくのだがそれはまだ数か月先の話。

 

 

 

 

 次回: 徳島県で奇跡の水質の温泉を見つける。

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