限界集落の旅-北海道空知地区岩見沢市栗山町万字 -髪の毛の伸びる菊人形を祀られるお寺に訪問。
北海道岩見沢市には髪の毛の伸びる菊人形を祀ったお寺がある。是非、行ってみたいなぁ、ご住職のお話しを伺いたいなぁと思ったけど…邪な好奇心は良くない…と思ったけど…栗山町万字地域の『萬念寺』を訪れた。極力失礼のないように、当たり障りないようにお寺に向かった。※人形や現地の写真はありません。
萬念寺
髪の毛の伸びる人形の話
1970年代、日本で髪の毛の伸びる人形ブームが巻き起こった。日本各地の『髪の毛の伸びる人形』を求めて、テレビや雑誌など多くのメディアが人形安置場所に訪れていた。萬念寺もその1つである。当時は先代のご住職が対応していたのだが、どんなに真剣に人形の由緒について答えても、メディアはプロのテクニックを駆使して人形が怖く見える角度を見つけ、写真を撮り、呪いや無念やら、消費者が喜ぶキャッチーな言葉で味付けし、本筋とは随分それた取材結果を世間に発表していたという。それ以来、メディアの取材は受けないようにしている。
※一般公開されているため人形に手を合わせることはできるとのこと。写真撮影は不可。
あぁ…そうか。
ご住職から『髪の毛の伸びる人形』のセンセーショナルな面にまつわる話を教えてもらった。日々生産される多くの物は、皆の『こうあって欲しい』という願望や期待に応えるために一生懸命こしらえられている、ある意味虚像なのだと改めて思った。たしかに僕も都市伝説とか好きだしなぁ…。好奇心で来たのも否めないしなぁ…。業深き人間だからかなぁ…。
せめてもの罪滅ぼしに人形の来歴を当たり障りなく、怖くなく書き残す。
【人形の来歴】
萬念寺の檀家さんにある日、女の子が生まれた。
めんこいな~めんこいな~って。親族大喜び。
めんこいから菊人形あげちゃおう!ってなった。
そしたらその娘、菊人形を気に入っちゃった。
でも娘さん、病で亡くなっちゃった(享年3歳)。
お葬式しなきゃねーって、親族一同大慌て。
お葬式大変だねーつって。
そしたら親族、娘の菊人形、棺桶に入れ忘れちゃった。
ありゃま、忘れちゃったねー、テヘペローなんつって。
ドタバタしてたもんねーって、
じゃぁ、娘の形見にしようねーってなったの。
でもこの時、日本は戦争中。
檀家さん樺太に移住することになっちゃった。
樺太に移住することになっちゃったよ和尚さーんって。
世が世だから、樺太に贅沢品持ってけないよーって。
※この時の日本ってそんな感じ。『欲しがりません勝つまでは』。
娘の菊人形持ってけないよー(泣)って。
困ったよーって。
我が子の形見、捨てるに忍びねぇから和尚さん預かってー、って話になって。
※この当時は先々代の和尚さん。今の和尚さんのお爺ちゃん。
いいよー、って和尚さん二つ返事。
- 数年後 -
和尚さんが久しぶりに人形を見たら、髪の毛が伸びてる。
ありゃま。
和尚さん、不思議だねーって。
髪の毛伸びてるねーって。
まぁ、伸びてるし髪切りましょうねーって。
ちょきちょき~。
さっぱりしたねー、よかったね~って。
- 数年後 -
まーた伸びてるね~(笑)
この人形、仏さんなんじゃな~い?って、
和尚さん思っちゃった。
したっけ娘さんの戒名と一緒に、仏さんの次に高い台に乗せて祀ったげよう!って。
それで今でも昔と変わらず祀られてる。
親が娘を思う尊い気持ちを100年近く経った今でも大事にしているとのこと。
だいたいこんな感じである。
娘の気持ちを汲んだ親の思いを100年近く経過した今でもお寺が守っているという話だった。おそらくこの話で一番大事なのは檀家さんの気持ちがずっと守り続けられているという尊さなの部分であって、人形の髪が伸びたか伸びなかったかはそこまで重要ではないと思われる。
ご住職(55)の教え
ご住職の人生論を聞かせていただいた。
自分は日本のいろんな集落で人生の先輩達から人生論を聞いていますと、旅の経緯を話した。
来るもの拒まずの姿勢
連絡先も伝えず、突然おじゃましたのにもかかわらず、本日ご対応いただけて幸いです。というとご主人曰く「来るもの、拒まず」とのこと。
実は数日前、ご住職にお話を伺うために都合のいい日時を聞いておいたが、その日にお寺を訪れたら檀家さんの急用があったようで玄関に『現在不在』を示す貼り紙があった。こちらの連絡先をご住職に伝えていなかったため、あぁ、しまった…、と悔やんでいたが、翌日ダメ元で改めてお寺を訪れたら普通に対応していただけた。
「これも何かの縁なので何か私が伝えられることがあれば、お伝えしようと考えました」昨日は急用で連絡先もわからなかったものですから、あぁ、無事に会えるだろうかと思っていましたが今日無事に来ていただけて良かった、と物腰柔らかなご住職。
昔、不良だった件について
人形の話をしていただいた後、ご住職の過去の話をしてもらった。
ご住職は昔、ツッパっていたという。では今の物腰柔らかな姿勢は化けの皮なのかと言えばそうではなく、若い時分、ご主人は結構頑張って不良をしていたという。
「昔の人はワルいことを頑張ってやってた。不良は無理しないとできない」
怖くても権力に歯向かったり、ケガするかもしれないけれども喧嘩したり、しんどいなぁ…って努力しながら不良をしていた。『真面目に不真面目』を絵に描くと昔のツッパリが出来上がるのだろう。
不良がお寺を継いだ理由
-不良をやっていたのにお寺を継ごうと思ったきっかけは何ですか-
「私を住職というレールに乗せるため先代は一切私に強制しなかった。なんでか聞いてみたら『やっちゃダメだと言われると人間は反発する。だから怒らなかった』その懐の深さを知って敵わないと思った」
人生で大事なこと
-人生で大事にされていることは何ですか-
「欲張らず煩悩を一つずつ減らしていく。ただし食欲などの煩悩まで全部なくすと人ではなくなる。いくつの煩悩を残すのか?なにを楽しみに生きるのか?これは残さないと私ではなくなる…という限界を認めると楽になります」
「(起)こうなったから、(発)こうならせていただいた。と考える」
どんな結果も、次の行動と結果に繋がり、そのまた次の行動と結果へ、延々と続いていく。これを『輪廻』と呼ぶ。だから物事を悪く捉えてはいけないのです。
話し合うときの基本
-僕は意見をぶつけ合うとき口調が弱くて戦えません-
「"意見"はぶつけ合うというより、クッションを与えあうものと考えます。 『意見』とは、別の考え方の人もいることを知り、考えを改善するための時間を作るためのもの。考えるスピードをダウンさせ、よりよい思案に結びつける。従って意見は戦わせるものではないと考えています」
守護霊ってなんですか?
2018年頃、僕の周りでオカルトな話題が多かった(守護霊がどうとか生まれ変わりの回数が何回目かなど)。そのため神仏に従事している人にはこういった質問をしている。
「亡くなった方全てが、今を生きる全ての人を護る守護霊であり、特定の誰かを護るという意味の守護霊ではありません。亡くなった人たちが自分たちを見守ってくれている。亡くなった人たちが誰一人欠けることなく存在したからこそ今、我々は生きている。寝て、起きて、呼吸し、食事できている。だから我々は亡くなった方々に手を合わせずにはいられない。供養せずにはいられないのです」※浄土宗の他力宗(自力ではなく仏様の力を借りて極楽へ行くという考え方)
そして守護霊(故人)を『供養』することは、今を生きる人達全てへの幸せを祈ることに繋がる。供養とは時代を超えた人のコミュニケーションであり、今を生きる人々への祈りなのだ。檀家さんの娘のお菊人形がずっと祀られている理由が垣間見える。
かつて僕が福井県の山間部の集落に訪れて、現地に2人だけ残った夫婦に『なぜ残り続けてるのか』と質問したとき、ご主人が『自分の人生があるのは、この何も無かった土地を切り開いた先人たちがいたから。この場所にはそんな先人たちが眠っている。失くしてしまうことはできない』と語ったことを思い出した。福井県のご主人のやっていることは不合理かもしれないが、見方を変えれば今を生きる人達への祈りだといえる。
ご住職にこの話をしたところ、すごく仏教的な考え方、とのことだった。
▼福井県の過疎集落を訪れたときの記事▼
元不良とは思えない柔らかな物腰。しかし、お話を伺った後に見かけた犬の散歩中のご住職が着用していた花柄をあしらったブルーのアロハシャツになんとなく不良のセンスを感じてしまった。
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